唐津の地
佐賀県は早稲田大学の創設者である大隈重信の生誕の地であり、唐津市は藩出身の天野為之の生誕の地でもあります。天野為之は早稲田佐賀中学校・高等学校の校舎が建つ位置にあった藩の英学校「耐恒寮」で学び、政治家、経済学者として活躍し早稲田大学第2代学長に就任するなど早稲田大学や本校と深いつながりがあります。また、この唐津の地は幕末から明治にかけて日本の政治・産業の発展に向けて大きく貢献した人材を送り出した地でもあります。
寮生にとって、第二の故郷になる唐津は、九州北西部の玄界灘に面し、古くから大陸との玄関口として栄えてきた歴史と伝統が息づくまちです。
例えば、毎年11 月2・3・4日の3日間にわたって開催される唐津神社の秋祭りである「唐津くんち」は2016年にユネスコ無形文化遺産に登録され、「エンヤ、エンヤ」「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で、14台の大きな曳山(ヤマ)が唐津のまちを駆け抜ける勇壮なお祭りです。八太郎館の前は曳山の巡行ルートで、祭りの盛り上がりを間近で楽しめます。本校横にそびえたつ「唐津城」。唐津のシンボルであり、豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が、1602(慶長7)年から7年の歳月をかけて築城しました。天守閣の展望所からは玄界灘や、日本三大松原である「虹の松原」など唐津の雄大な景観が一望できます。その他にも、唐津出身の建築家である辰野金吾の監修で1912(明治45)年に竣工した「旧唐津銀行本店」や、豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」で出兵拠点として築かれた名護屋城の「名護屋城趾」、1905(明治38)年に建てられた、炭鉱王・高取伊好の邸宅である「旧高取邸」があります。
唐津の自然、唐津の文化
唐津湾沿いに全長約4.5km、幅約500mにわたって、虹の弧のように連なる松原。唐津藩初代藩主、寺沢志摩守広高が、防風・防潮林として植林し、その数は約100万本と言われています。日本三大松原の一つで、国の特別名勝に指定。素晴らしい景観を保全するため、本校の生徒たちも地域ボランティアの一環として清掃活動に参加しています。
本校や唐津城に隣接している、玄界灘の島々が目の前に広がる景色の良いビーチです。最近はSUP(スタンドアップパドル)を楽しむ人でにぎわい、本校の生徒も楽しんでいます。
毎年1 1月2・3・4日の3日間にわたって開催される唐津神社の例大祭。
2016年には、ユネスコ無形文化遺産に登録。「エンヤ、エンヤ」「ヨイサ、ヨイサ」のかけ声で、大きな曳山(ヤマ)が唐津のまちを駆け抜ける勇壮なお祭りです。「赤獅子」「鯛」「鯱」など、14台の曳山がずらりと並んだ光景は、まるで極彩色の絵巻のよう。八太郎館の前は曳山の巡行ルートで、祭りの盛り上がりを間近で楽しめます。
本校の生徒たちを見守るようにそびえたつ唐津城。豊臣秀吉の家臣、寺沢広高が、1602(慶長7)年から7年の歳月をかけて築城しました。展望所からは、唐津の雄大な景観が一望できます。
城下町の風情漂う唐津のまちなかに、優雅に佇む旧唐津銀行。東京駅を設計した唐津出身の建築家、辰野金吾の監修で、1912(明治45)年に竣工、現在は地域情報の発信の場として活用されています。
1905(明治38)年に建てられた、炭鉱王・高取伊好の邸宅です。和風を基調としながらも、洋館が併設されるなど近代和風建築の素晴らしさを随所に堪能できます。
豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」で、出兵拠点として築かれたのが名護屋城です。徳川家康や伊達政宗など全国から諸大名が集まり、城周辺には130以上の陣跡が点在しています。